説明不足

人生には与えられた意味も目的もない。なぜならそれは選び取るものだから〜ケンブリッジ白熱教室 第3回「FBI対フランス哲学者」

マイケル・サンデルの政治哲学講義を収録した「ハーバード白熱教室」などでお馴染みのNHK Eテレ白熱教室シリーズで、2014年に放送された「ケンブリッジ白熱教室」。今回の教授は実存主義を専門にするアンディ・マーティン博士。全4回の放送で第2回までを見逃してしまったのだがこれが大変面白かった。NHKオンデマンドでも配信されていないようなので、4年前のテレビ放送視聴時に書き起こしていたものを残しておく。

第3回は「FBI対フランス哲学者」。マーティン教授が入手したFBI捜査資料をもとに、サルトルとカミュを徹底分析。第二次大戦後、個人の存在にこだわり続けたカミュ、そして実存主義を社会や共同体にまで拡げたサルトル、ふたりの変遷と対立について語る、という内容。

実存主義とは何か
実存主義について簡潔にまとめられている動画を載せておく。
(18ヶ国語に翻訳されているがなんと日本語字幕はない。時間があれば翻訳したいが・・・)


Existentialism: Crash Course Philosophy #16
ナイフの柄は木製であろうが金属製であろうがナイフであることに変わりないが、その先に刃がなければそれは最早ナイフではない。それは刃こそがナイフに役割を与える本質的な特性だからだ。そこでプラトンやアリストテレスなど古代ギリシャの哲学者たちは人間を含む全てのものに本質は存在すると信じ、またそれは人が誕生するよりも前にすでに個々の中に存在していると提唱した。本質とは役割であり、目的を与えるものである。あなたは何者かになるべくして生まれてきたのだ。ところが19世紀後半になり、ニヒリズム(虚無主義)を唱えるドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェなどこの考えに異議を唱える思想家たちが現れる。そして20世紀中期、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが再び本質について問う、「実存が本質に先立つとしたらどうなるのか」と。目的や本質は持たず生まれ存在し、その後自らの本質を探し出すのだとしたら・・・。簡単に説明すると、これが実存主義である。

(以下書き起こし内容)

(アンディ・マーティン教授)私たちはFBIを反哲学者と考える傾向がある。FBI初代長官フーバーとその部下たちが哲学者、特に外国の哲学者たちに深い疑いを抱いていなかったという人はいないだろう。だがFBIの資料を調べていく中で強く興味を引かれたのは、単に哲学者を監視していただけではなく彼らも哲学を持っていたということだ。彼らは、監視や捜査の過程でFBI版の『存在と無』ともいえる哲学的考察を展開している。 

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

 

さて、サルトルとカミュ、二人の哲学者に対して行われたFBIの長期に渡る監視について考える前に、反対に捜査機関の哲学について考えてみる。1908年に戻ってみたい。チェスタートンの小説『木曜日の男』だ。小説の中には『哲学的警察官』と呼ばれる登場人物が描かれている。「哲学的警察官の仕事は通常の刑事の仕事より大胆であると同時に繊細だ。普通の刑事は泥棒を捕らえるために場末の酒場に行く。私たちは悲観主義者を見つけるために芸術家のパーティーに行く。普通の警官は経理帳簿や日記から犯罪が行われたことを発見する。私たちは詩集から犯罪が行われるであろうことを予見する。私たちは彼らを知的犯罪へと駆り立てるこれらの恐ろしい思想の源をたどらなければならない。『教育を受けていない者が危険な犯罪者だ』という上流気取りの英国的仮説を否定する。いま最も危険な犯罪者は全く無法な現代の哲学的たちだ」。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

 

哲学者に対する捜査は歴史をひもとくとSFでも目新しいものでもない。いくつかの例がある。古代ギリシャのFBIはソクラテスにも目を光らせていた。プラトンも著書『国家』において詩人たちはブラックリストに載せられるべきだと考えていた。

私が知る限りジャン=ポール・サルトルがFBIに目をつけられた最初のフランス人哲学者だ。FBIは実存主義として知られるこの新しい「知的狂信主義」が一体何なのか、「知的犯罪」につながるのかを知りたがった。そして実存主義が「共産主義」の別名なのかを知りたがった。第二次世界大戦終戦当時の状況を思い出してほしい。アメリカにとって第一の敵は既にナチズムから共産主義へと移行していた。そしてこれはFBIの歴史から見ると第一次世界大戦終戦時にまで遡る本来の敵だ。つまりFBIは共産主義を監視するために設立されたのである。新しいソビエト連邦が何をしているのか特にニューヨークにやって来るロシア人移民が何をしているかを監視するために。だからFBIは第二次世界大戦後本来の使命に戻ったわけだ。その時ソビエト連邦は東ヨーロッパの大部分を支配していた。FBIは共産主義が西側に漏れ出してくるのをどう食い止めるかという事になった。しかし共産主義者はずる賢い。彼らは偽装していた。全ては暗号化され内密に置き換えられた共産主義のマニフェストの可能性がある。「マニフェスト」とは訳せば「明らかにする事」なのに。フロイトなら「潜在的なもの」と言っただろう。だからFBIの捜査官は精神分析学者そして解釈学者になることを強いられた。FBIの哲学的警察官は別の意味でも哲学的だったと言える。哲学者たちを追ううちに「哲学的捜査」とでも呼ぶべきものを行う事になる。

そもそもサルトルをアメリカに送り込んだのはレジスタンスの秘密新聞「コンバット」の編集者であったアルベール・カミュだった。1945年の初頭終戦前ジャーナリズム的な使命としてだった。実は彼らはアメリカ政府に招待されたのだった。正確に言えば戦争情報局である。その意図はアメリカの戦争努力についての肯定的なメッセージを広めさせようというものだった。もちろんFBIはパニックに陥った。「チーズ食いの降伏者の猿たちを招き入れて私たちは一体何をやっているんだ?戦争努力を台無しにしている。なんてことだ。これで私たちは負けてしまう。ソビエト連邦の侵入を許してしまう」。再び言うが私はFBIに対して同情しないわけではない。とりわけアメリカの戦争努力に関するプロパガンダを書かせる目的で『存在と無』や『嘔吐』そして恐らく20世紀の最も辛辣な『地獄とは他人のことである』の作者であるサルトルを君なら呼び寄せるか?そんなFBIの長官はジョン・エドガー・フーバーだった。

やがてサルトルがニューヨークに到着した。1945年1月だ。サルトルが最初に書いたのは素晴らしい記事だ。実際サルトルはこの随筆の終盤で黙示録のように摩天楼の崩壊を予言する。フーバー長官の彼の部下たちがすぐにサルトルの追跡を始めたことには何の不思議もない。そしてフランスのレジスタンスに加わった誰もが共産主義者である疑いを持たれる事になった。その間、自称「書く機械」サルトル、彼は猛スピードで記事を書きまくっていた。フランスの雑誌『ル・フィガロ』はサルトルの記事を出版した。これも偉大な戦争努力についての彼の意思表示だがその中で彼は反レジスタンスだとしてアメリカを拠点に活動する他のフランス人ジャーナリストを非難する。なぜなら彼らは国務省と組んでいて多額の資金提供を受けていると彼は見ていた。そしてこの事はニューヨーク・タイムズの見出しへとつながる。

(『レジスタンスの敵、アメリカが支援』の見出しが出る)

サルトルはスパイ行為を働かれている事には最初から気付いていた。サルトルはアメリカから期待された役割を実際果たしていない事に気付き少し前言撤回をしようとしてある記事を出版する。そこで彼は明るい語調をとろうとする。サルトルの偉大な全作品を考慮してみてこれは実際彼の書いた中で最も楽観的な語調かもしれない。特にアメリカに関するもので言えば。「私はアメリカの兵士たちがフランスの国境を守るために戦っているからこのように言うわけではない。フランス人がその事を忘れることは決してないが、私たちはアメリカ文学の影響を受け、そして占領下に有る間、私たちの精神はアメリカの方へと向いた。全ての自由国家の中で、最も偉大な国の方へと」。これが私の強調したい点だが簡単に言うと、この東西に「二極化した世界」において何か小規模の内乱のようなものがフランス側で起こっていて今それがアメリカで戦われている。サルトルは監視の目をかいくぐることのできる信用のならないゲストだと解釈されていた。フランスのレジスタンスと関係のある人は誰でもソビエト連邦と共謀していると見られていた。だからサルトルと仲間のメンバーがアメリカ国内を動き回る度に、彼らはさまざまな共産主義組織、いや偽装した共産主義組織と接触しているのではないかと疑われていた。一方でサルトルの監視と情報収集に対する態度はどうだったのだろうか。

(学生)軽蔑でしょうか。それから、いらだち。

(マーティン教授)なるほどいらだち、恐らく正解。なぜならサルトルはほとんどの物事に対して軽蔑しいらだつ傾向があるから。質問を変えてみよう。彼は監視されることに驚いたのか。答えはノーだ。なぜならサルトルはむしろフーバー長官と似ていて簡単にいえばもう一方の情報主義者だったからだ。サルトルは社会に対して情報戦争を挑んでいた。サルトルは完全な透明性に価値を置く。彼はまさに現代の「セレブ・ゴシップ」の予言者だ。サルトルは私が言う「表裏社会」と呼ぶものに興味を持っていた。この「表裏社会」において隠されているものは何もない。だからフロイトの無意識についてのサルトルの冷笑、軽蔑、そしていらだちが理解できる。サルトルは何か深く隠された秘密を掘り出さなければならないという考えが嫌いだった。情報は何らかの形で明らかになっているべきだと考えた。例えば『存在と無』の偉大な一節について考えてみよう。哲学者が鍵穴を通して誰か別の人をのぞき見ている。彼は凝視している。鍵穴を通して彼が何を見ていたのかは忘れてしまったが。彼は誰かの部屋を見ている。彼はかがんで鍵穴を通して部屋にいる誰かを見ている。そして彼に何かが起こる。あるいは彼が何かに気付く。彼は気付く。自分の後ろに部屋をのぞき込んでいるサルトルを見ている誰かがいることに。彼は背後からスパイされている。

(ナレーション)「『のぞく』という主体的な行為を行う自分は同時に他者からのぞかれることでまなざしの対象というものとして存在する」とサルトルは言います。このことは実存主義において自分は他者にとってものという情報の一つとして存在することは避けられないことを意味する。

(マーティン教授)彼はいつも予期している。自分が誰か別の人を追跡しているにしても同時に誰かが自分を追跡しているということに気付く。そこには凝視する目がある。スパイされることを止めることはできない。

(学生)「存在」についての情報を作り出すことができるということでしょうか?恐らく「無」というのは「スパイする」ということで、でも自分の存在についての情報を作り出すためには自分を見ている誰かが必要ということでしょうか?

(マーティン教授)そのとおり。そしてそれはとても根本的なもの。誰かに見られていることを君は嫌がるかもしれないが、あのオスカー・ワイルドの一節「誰かが陰で君について話をしているよりも悪いことがたった一つだけある」 。

(学生)「自分のことが話されているよりも悪いことは話されていないこと」です。

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

 

(マーティン教授)そのとおり。だからひそかに話されていることを期待しているということ。ひそかに自分についての会話がなされていることを知りたいと思っている。これはサルトルの解釈だが、面白いのは誰もが何となくそのことを期待しているということだ。彼はそれが行動規範だと推測している。もし透明性を欲するなら自分も透明でなければならない。言い換えれば「監視しているもの」と一緒に進んでいかなければいけない。なぜなら君もまた情報、つまりものだからだ。そしてこれが恐らく君が主張しているものだろう。

FBIはサルトルがアメリカにいる間、たくさんの情報を彼から盗もうとしていた。でも実際彼らはサルトルを丸裸にするために何も盗む必要はなかった。サルトルから情報を盗むことはできない。彼は実際情報を全て渡したくてたまらなかったわけだから。FBIの資料にその証拠がある。サルトルは1945年3月戦略諜報局のエージェントの一人のところに立ち寄って話をする。それは「君たちは私に対して十分にスパイを行っていない。私は君が気付いていないものを教えるために、君に会いにやってきた。私はニューヨークに彼女がいる。君たちはそんなことにも気付いていないだろう。役立たずが」と言っているようなものだ。戦略諜報局は私たちが現在CIAとして知るものの前身だった。CIA中央情報局。これは本当の話だが彼はエージェントに「ド・ゴール将軍が神話として語られているフランス国内の現在の状況、基本的に全員が共産主義者だということは間違いだ」という状況説明をする。

(学生)サルトルの情報の全体的な透明性の考えについてそれは政治的なものだったのですか?それとも単に情報や知識というものだったのですか?なぜならもしそれが政治的なものであった場合、たくさんの隠されたものや未知のものがあります。だから政治的な意味合いで「透明性」とサルトルが言うのは不思議な気がします。

(マーティン教授)面白い。そして私は根本的にはその質問への答えを知らない。でも私はこう言う。君はサルトルの文筆キャリアにおけるある種の移行という意味で考えている。個人的なものからより政治的で公的なものへの移行だ。サルトル自身の中には疑いなく対立がある。言い換えればある種の全体的認識論。そこでは最大の情報に到達することができそれを熱望することを期待する。でもサルトルは本当に到達するように期待しているわけではない。プライバシー、隠された部分、いわば情報のゆがみがあることを予期している。でも同時に政治的目的については正確には第二次世界大戦の戦争経験全体が、サルトルに影響を与えたに違いないと言うこともできる。これはかなり複雑だ。なぜなら彼は行動的な人間だったが、第二次世界大戦の際には十分ではなかったからだ。レジスタンス活動においてある程度のステータスに到達したカミュと比較するとサルトルはあまりよいステータスには到達しなかった。パリ解放闘争の間サルトルはすばらしい仕事を与えられた。「君はヒーローになりたいだろう?君はこの建物に出向いて解放するように君一人でやるんだ」。サルトルはナチスによって占領されたパリのオペラ座を解放するという仕事を与えられた。だが実はナチスは既にそこを去っていた。彼がその仕事をもらう前に誰もがそのことを知っていた。サルトルはカミュに報告を上げることになっていたのだが、カミュがオペラ座に立ち寄ったとき、カミュはサルトルが劇場最前列にある快適な椅子で眠っているのを見つけた。カミュはサルトルを揺さぶって起こしたという。これはカミュの言葉だが、彼はサルトルについてこう言った。「彼は肘掛け椅子を歴史の方向に向けていた」。これはとてもおかしい。でもサルトルはこれをあまり快く受け止めなかった。サルトルは「行動的な男」でありたかった。だから疑いなく第2次世界大戦後、サルトルはある意味埋め合わせをしようとしていたのだと思う。いわばもう一つの戦争を戦うというような。その戦争は彼にとって決してやむことがなかった。

カミュも同様に事の最初から監視疑惑に気付いていた。ここで重要なのは、サルトルとカミュが情報の在り方について異なる観点を持っていたことだ。カミュはサルトルと対照的に分別やプライバシーの美学を提案する。一方サルトルは情報の最大化、透明化へと向かう傾向がある。カミュにとっては情報過多というものが存在する。カミュの著作『反抗的人間』の引用だがカミュはいわゆる「限界の哲学」を好む。カミュは「不思議な」という言葉を使う。それはたとえ分析や調査のあとでも他人についての知識の中には残されたものがあると予期しているからだ。一方サルトルにとって文学はわいせつともいえるところまで現実主義的であるべきだと考える。全てを見せるべきだと。「薄い靄のような雰囲気。始めや終わりを記すもののない縦長に引き延ばされたたくさんの塊」ちなみにこれはサルトルが摩天楼の崩壊を予測した表現だ。サルトルとカミュのニューヨークへの反応を比較すると非常に興味深い。カミュはニューヨークについて書くとき、色彩、食べ物、匂い、タクシー、ネクタイショップなどを賞賛する。カミュはニューヨークのネクタイがお気に入りだった。引用しよう、「暴力的 光の乱交」これはブロードウェイのことだ。

(学生)サルトルの監視への興味が読者を必要とする彼の文芸活動とリンクしているのではないかということについて先生はどのように考えていますか?

(マーティン教授)作家としてのサルトル。その主張は誰か自分の書いたものを読んでくれる人がいなければ、なぜ作家である必要があるのか。だから同じ意味で、個人として私が何をしても何を考えても何を言っても、その私を見る観察者が必要だ。それゆえに、私はある意味監視されている必要がある。偉大な単独の個人でありたいと思うからうまくいかないのだと。彼は「なんてすばらしい『単独の』個人なんだ」と言ってもらう必要がある。だから周りに見ている人がいることによってカミュの言う「孤独の魂」とか「異邦人」のような立場は全て崩れてしまう。でもカミュはそれにしがみついていたかった。一方サルトルはそれを限界まで突き詰めるとある時点で書くことそのものが必要なくなってしまう。作家は必要なくなる。なぜなら誰もが全てを既に知っていることになるからだ。だから書くことが何も残されていないんだ。完璧な情報の連続性が存在することになると作家はいなくなる。私たちは既に全ての人の間の完璧な親密関係を持っていることになる。本があり読者がいて作家がいる状態は完璧な親密関係が無いからだ。サルトルとカミュは二人ともノーベル文学賞を授与された。二人のうち一人が受賞を辞退した。どちらだったか?サルトルは辞退した。なぜ彼は辞退したのか。さまざまな説があるがそのうちの一つは、サルトルがその当時文学の概念に深く懐疑的になっていたからというものだ。

明らかにFBIの人々は反共産主義者だ。しかし彼らは十分に反共産主義的ではなかったと主張したい。彼らは共産主義を決して真剣に捉えていなかった。共産主義はFBIにとって実際には意味をなしていない。なぜなら、FBIにとって全ては意味をなさないからだ。この考えは、主にフーバー長官から課された長く続く命題「一体実存主義とは何なのか」に答えるニューヨーク支局の捜査官によるものだ。フーバーは私の君たちへの答えのような曖昧なものでは満足していなかった。しっかりと実存主義の正体を確かめる必要がある。それで捜査官は報告レポートを作成する。彼は言い換えれば究極の哲学的警察官だ。例えばこれは捜査官がカミュについて言っていること。「この哲学は不条理とともに生きることを推奨する。不条理ゆえに人生をより十分に楽しむよう勧める。なぜなら人生には意味がないからだ。人生の非合理を前にして痛いほどに明快」

ここでサルトルの初期の哲学小説『嘔吐』に見られる古典的な物語批判に戻ってみよう。

(ナレーション)サルトルが1938年に発表した小説『嘔吐』。フランスのとある町で絶望した研究者が、物事や境遇によって彼自身の自我を定義する能力や理性的・精神的な自由が侵されているという確信に至り吐き気を感じさせられる様子を描いている。 

嘔吐 新訳

嘔吐 新訳

 

(マーティン教授)サルトルが物語に反対して『嘔吐』の中で何と言ったか覚えている人は?

(学生)連続する全体としてではなく、部分部分を切り離したり入れ替えたりして、でも彼が言うには、最終的には全ては同じものに行き着くということです。

(マーティン教授)物語の主人公はある侯爵の伝記を書こうとしている。彼はこの観念について何と言っている?なぜ伝記はうまくいかないのか。

(学生)それは自分自身の人生ではなく別の人生を生きているようなものだからです。

(マーティン教授)それがこの部分の本質。彼は一方で「生きていること」と、他方で「物語ること」を区別する。物語は「目的論的」だ。なぜなら物語は「目的」を視野に入れ結末を置いているからだ。一方、人生は「反目的論的」だと彼は言う。言い換えれば捜査官が言うように、人生には意味も目的もない。だから君たちは選択をしなければいけない。サルトルは「生きる、または、物語る」という対立関係を打ち立てる。両方を同時に得ることはできない。そして彼は人生において本当には何も起こらないと言う。

サルトルは戦後、興味深くも魂を失った実存主義的カウボーイヒーローからいわゆる「融合集団的な概念」に向かって移行していくと思う。そこで個人はいつも何かの目的を目指して、誰かと協調し協力しようとする。戦後のカミュはもっとずっとFBI的だ。「反抗的人間」を見てみると、古典的な反全体主義だ。彼らは「融合集団」を嫌う。「問題の人物のグループ、レジスタンスにおけるカミュのグループは元々ドイツからの侵入者に対抗してレジスタンスを形成するために個々の政治哲学者が集まって形成されたとカミュは言った。解放が訪れた時、このグループの目的はなくなりグループは解散した。個々のメンバーは各自の政党や哲学へと戻った」。これは概してカミュ派の理論だ。FBIはカミュを自分たちと同類の人間だと知る。それによると個人は世界に対して決して意味をなさない。あるいは長期的に他人とつるむこともしない。つまり実存主義者は「親密な絆」あるいは「家族的類似性」を過小評価しているとも言えるだろう。反対に共産主義は親密な関係性の過大評価だと定義される。

サルトルを調査したFBIは何年も彼の作品を理解しようとした末、チェ・ゲバラ、バートランド・ラッセル、ブラックパンサー党、そして反ベトナム戦争運動との関係に気付いた。しかし彼が共産主義支持派なのか反対派なのかを知ることは不可能だと結論づけた。

まとめると、物語、哲学、そしてスパイ行為は共通の起源を持つ。これらは情報の欠如から生じる。サルトルの「全体的情報」の世界への期待は、全てのものの意味をなくしてしまう。FBI、小説家、あるいはフランス哲学者の必要性はもはやなくなる。でもサルトルが彼の豊かな表現の中で言うように、私たちが持つのは「全体分解的な全体」だ。カミュは『反抗的人間』で、「全体をつかむことの不可能性」に同意する。だから結局私たちの中には哲学的警察官のようなものが存在する。でも同時に結論として実存主義の意味と関係するものがあると思う。なぜなら人々は私にこのように尋ねるからだ。「実存主義を定義してほしい」。これはちょうどフーバーが尋ねていることと同じ。「私は私の情報ではない。私は一連のデータに還元されるものではない。私は全体分解的な全体だ」。

(書き起こし終わり)

異邦人 (新潮文庫)

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カミュ全集〈6〉反抗的人間 (1973年)

カミュ全集〈6〉反抗的人間 (1973年)

 
実存主義とは何か

実存主義とは何か

 

#MeToo運動のバックラッシュはどのようになるか

“Here’s What a Backlash Against #MeToo Might Look Like”

2017/12/14 by Lesley McClurg

翻訳元記事 

ww2.kqed.org

 ハリウッド映画プロデューサー、ハーヴィー・ワインスティーンに対する性暴力告発に引き続いた#MeToo運動で相次ぐ性被害の告白は、アメリカを職場における社会革命へと駆り立てている。

言葉による暴力、不適切な接触や痴漢行為、セクシャルハラスメントの告発によって、必ずしも常に女性たちの望む形ではないにせよ、多くの著名人男性らの謝罪の言葉や反省の顔を得た。告発された男性らが未だに認めていないレイプの告発もいくつかあるが。

胸の痛むような男女の対立する期間ではあったが、Google Newsが「セクシャルハラスメント」について検索したところ200万以上もの、そしてさらに増加しつつある検索結果を得た。またアメリカ国内での対話が概して「現状は許容できないものである」という認識を持って、また冷やかしではなく丁重に交わされている事実をも明らかにしている。

しかしフェミニストや評論家たちは現在の#MeToo運動での語り口の変更は避けられないと警告する。

バックラッシュがやって来るのだ。

Twitterではすでに不満の声が上がってきている。スウェーデンの作家でありテレビタレントのアレクサンダー・バードだ。

調査によれば、スウェーデン人男性の45%は#MeToo運動はやりすぎだと感じている。閉ざされた女同士のネットワークでゴシップを言いたいだけのノイローゼにかかった女性にただ単にお世辞を言っただけで、男性が解雇や懲戒処分、キャリアを台無しにされ続ける限りこの数字は下がらないだろう。

 「嘘 セクシャルハラスメント」、「虚偽のセクシャルハラスメントに関する主張」などで検索すればこのようなツイートは他にも多く見つかる。

ありふれた戦術

はっきりさせておこう、知られているもので「ただ単にお世辞を言っただけで男性が解雇や懲戒処分、キャリアを台無しにされた」事例はまだない。

スタンフォード大法学教授、ミッチェル・ダウーバーはこの藁人形論法を用いた批判を「下劣な」手法であるという。「女性をノイローゼ気味だといったり、セクシャルハラスメントの告白をゴシップと呼ぶのはよくある戦法だ。これは公に告白をしようとしている女性の信用を貶めるための行為だ」とダウーバーは述べる。

沈黙の犠牲者に対する典型的な策略

オレゴン大学教授であり心理学者のジェニファー・フレイドはセクシャルハラスメント被害者の信用を落すために利用される手法について研究している。多くの場合、最初の戦法は否定で始まり、ガスライティングなどを用いた攻撃がそれに続く。

「お前は嘘つきだ。正気を失っていて、信用できない」「なにか裏に動機があるに違いない」

加害者や彼らを擁護する人々が最後に採る手段は、被害者に罪悪感を抱かせることだ。

「お前は俺の評判を傷つけている。俺の人生をめちゃくちゃにしている」

 ダウーバーは加害者が話を歪めるのを幾度となく見てきたと語る。

「これは女性が何十年にも渡って経験してきたことなんです。そして公に名乗り出ることのできる被害者がほんの一部しかいないことの原因でもあります」

虐待方法としてのガスライティングについて学んだ10のこと|Erin|note

アニタ・ヒル事件

フレイドはこれらの手法の広く知られた最も明らかな例は、1991年に行われた最高裁のクラレンス・トーマス判事承認のための議会公聴会だという。トーマス判事の元同僚であったアニタ・ヒルは彼を不適切な性的発言をしたとして告発した。共和党の上院議員らは、トーマス判事の弁護側の証人と同じく、ヒルが男性との関係を空想する傾向があるという可能性を挙げた。

これがトーマス判事のクラスメイトでありヒルについても知る人物が、彼女が報われない恋愛感情をトーマス判事に対して抱いていたと証言する動画だ。(動画は元記事を参照)

トーマス判事は犯行を否認し、上院議員らはそれを立証した。

フレイドはヒルは真実を語っていたと見ている。「この状況で彼女より信頼できる人物を想像するのは難しいでしょう。しかしそれでもなおこの攻撃は効果的なようだ」

 戦術を見越した対策 

 ヒルの恐ろしい体験を目にし、フレイドは「否定(Deny)・攻撃(Attack)・被害者を犯人に仕立て上げる(Reverse Victim to Offender)」の頭文字であるDARVOという新語を造った。被害者たちに加害者の戦術を思い出させ、対策を講じさせるためだ。

「行動パターンを特定し疑問視することができれば、方向感覚を失ったり困惑したりせずにすみます。牙を取り除くことができるのです」と彼女は主張する。

一方で、DARVO戦法を採ったからという理由のみでセクシャルハラスメント容疑者を有罪と決めてかからないよう注意しなければならないと忠告する。

「実際に潔白である人も告発の否定や、告発者を攻撃したり自分こそが被害者であると主張することもあるでしょう。先の研究では有罪または無罪の相関関係としてのDARVO反応の可能性を明らかにすることができるかもしれません」